ぱすてる通信 vol.4 (1996.3発行)
  1. ジェンダー探し  飯田貴子


  2. 意見表明権  井上千佳子


  3. お弁当つくりに思うこと   戸石知子




ジェンダー探し  飯田 貴子


 “Sport For All”と“ジェンダー論”の実践を社会的使命に、個人的には身体活動の競技性と芸術性の追求を、今年も目標にしていきます。
 「どこかで見かけた文だ」と思われませんか。
 「そうです」これは、1996年の年賀状の私の挨拶です。
 パステルの活動は、1番目にあげた“Sport For All”に位置づけられています。身体活動の競技性と芸術性の意味するところは、私が密かに特技として磨いている、硬式テニスと日本舞踊をさしています。
 それでは、残る1つ“ジェンダー論”について、少し説明させてください。
 人の性には、生まれたときから身についている生物学的な性“セックス“と育っていくなかで身についていく社会的文化的な性“ジェンダー“があります。赤ちゃんに着せるおくるみの色、与えるおもちゃ、大人の言葉「いくつまで泣いているの、男の子でしょ。」「なんですか、そのお行儀は、女の子のくせに。」…生まれて以来、人はこのような性による固定観念にあてはめられ、「女らしさ」「男らしさ」を形成していきます。これが、”ジェンダー“なのです。
 問題なのは、そこでは女も男も同様に性役割の規範に押し込められ、抑圧されていますが、圧倒的に質・量ともに女の負担が大きいということです。そして、この性役割の束縛から解放されない限り、女は男と対等になり得ないのです。
 昨年、私は「体力テストとジェンダー」を学会で発表しました。女は男に比べ体力がないといわれていますが、体力を計る物差しである体力テスト自身が、男に有利にできていることを、3つの角度から検証しました。
 1つは、体力テストには国防の目的で、国家による国民=兵士=男性の体力管理の必要性から生じた歴史的背景があることです。2つめは、現行の体力テストでは、社会生活の基盤となる体力の評価が充分できないだけでなく、過大に体力の男女差を認識させる過ちを犯していることです。説明を加えますと、体力テストで測定している体力は、「競技力」を反映する体力であって、そこには筋力やパワーや持久力など、男が生物学的に優位な体力が含まれています。反面、生命力や諸々のストレスへの抵抗力など、女が優位といわれ、「健康」の基盤となる体力は、測定対象から外されています。3つめは、測定方法が男に有利になっていることです。例えば、敏捷性(神経系の機能)には本来、性差はありませんが、反復横とびのような種目になれば、男に比べて相対的に脚筋力が弱く、体重が大きい女は不利になってきます。
 私自身、毎日の生活のなかで、夫よりも体力的に劣ると感じたことは一度もありません。むしろ、私の方が病気にもならず寝込まないし、きっと長生きもするだろうと、これは夫も確信しています。もちろん、瓶のふたを開ける時など、力を必要とする場合もありますが、文明の利器を使えばすむことです。ですから、「女は男にくらべて体力がない」「だから、内の仕事をするのに向いているのだ」を聞くたびにやるせなく、悶々としてきました。そして、何かが、どこかで間違っていると問い続け、答えの1つとして、体力テストにジェンダー・バイアス(性によるひずみ)が潜んでいることをつきとめたのです。私のなかで、長年くすぶり続けていたものが、いっぺんに吹き飛び、晴れやかな気分になりました。
 体力テストについては、今までに多方面から研究がなされていますが、体力テストをジェンダーの視点から分析するという作業は、過去に一度もなかったのです。
   「何故でしょうか?」
 それは、これまでの学問や研究が男たちによって手がけられ、構築されてきたからです。しかし、今、人類の半数を占める女たちがこのことに気づき、すべての学問を、女の目で見直す作業がはじめられました。これが、女性学といわれるものです。従って、女性学は学際的な研究であって、その領域は政治、経済、法学、歴史、社会、教育、芸術、意識、言語、思想、文学など多岐にわたっています。女たちのこの歩みは遅々として、時には停滞しているように見えるかもしれませんが、以後、決して逆流することはないでしょう。

「男は理系、女は文系」
「男は、モルツ」
「うちの主人に、うちの家内」
 私たちの周りには、まだまだジェンダーの化石がいっぱい転がっています。
「パステルの皆さん。この1年、私と一緒にジェンダー探しをしませんか。もっと、居心地のよい世の中にするために。」



意見表明権  井上千佳子

 「意見表明権」という言葉をご存知でしょうか。子供の権利条約の中で使われていて「子供のくせに」「子供は黙っておれ」と言われることなく、その子の能力に応じて、意見を言う権利があるという事です。
 意見を言う、自分の考えを述べるということは、大人の私たちでも躊躇してしまいます。他人がどう思うか、自分という人間がどう見られるかなどなど。人に意見を言う、気持ちをはっきりさせるということは、案外難しいものだと思っています。
 特に、私は主人の闘病中、医師とのやり取りの中で、私たちの意志をきちんと伝え、理解してもらう事の難しさを感じました。黙って医師の指示に従うことを、求められていると感じました。
 「長いものには巻かれろ」式の日本古来(?)の考えもあります。でも、今回の体操フェスティバルの反省会の折、飯田先生から「感じたことは何でも言って」の言葉に答えて様々な意見が出され、参加者としての希望もずいぶん出ました。
 これは「とってもいいな」と思ったのです。ひとりひとりが創っていく気持ちで意見を言う。そのことで参加者としての自覚と責任も高まる(?)と思えました。
 自分の子にも、かかわっている生徒にも、自分の意見を言う能力を是非つけてやりたい。そして、学校や社会の構成員として自覚を持って生きていってもらいたい。と思っているこの頃です。そのためにも私がそうありたいと願っています。




お弁当つくりに思うこと   戸石知子

 ある新聞に、お弁当の話が載っていました。といっても作り方ではありません。ある娘さんが、結婚のために退職する事になり、お勤めの最後の日、いつものようにお母さんの作ったお弁当の包みを開けてみると、中にお母さんのお手紙がありました。そこには、「長い間お母さんのお弁当を食べてくれてありがとう。あなたの退職と同時に私の弁当つくりも失業です。」と書いてあったのです。それを読んだ娘さんは、涙が止まらなかったということです。
学生時代もOLになってからも、当然のようにお母さんのお弁当を持っていっていたのですが、よく考えてみると、毎日お母さんに面倒をかけているのに何の恩返しもしないまま、嫁いでいくなんて・・・・・。
 この話を読んで私はとても恥ずかしく思いました。こんな気持ちでお弁当作りをしている人がいる。いつも子供に「明日はお弁当いるの?」とか「パンにしたら?」などといって、少しでも楽をしようと思っている自分を恥ずかしく思ったのです。「お弁当の方がいい!!」と言ってくれるのは嬉しいのですが、次の瞬間「あーあ、面倒だな。」と心の隅で言っている自分を罰当たりな人間だと思いました。お弁当を作るのは義務ではなく、私に与えられた権利なんです。食べてくれる人がいるのです。
 日常生活の中で、つい忘れてしまう感謝の気持ち。不平不満を先に言ってしまうことが多い中で、ちょっと今の自分の姿を振り返ってみる事の大切さを考えさせられました。




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