ぱすてる通信 vol.7 (1999.3発行)
  1. スポーツと「女性のエンパワーメント」 飯田貴子


  2. 呪文 パステル  荻野扶美子


  3. 私の故郷のお葬式 高橋公世




スポーツと「女性のエンパワーメント」 飯田 貴子


1.私が目標とする「男女共同参画社会」

   最近、私は至る所で同じようなことを書いている気がします。そのことはとりもなおさず、「スポーツと女性のエンパワーメント」が、私にとって現在もっとも興味のあることであり、なおかつ、課題として取り組んでいかねばならないという責務のようなものを感じているからでしょう。では、このテーマについて順を追って説明することにします。
 まず、私が目標としているのは「男女共同参画社会」の形成です。「男女共同参画社会」とはどのような社会なのか。少し長くなりますが、内閣総理大臣官房男女共同参画室の資料を引用します。

 「男女共同参画社会」とは、「男女が、社会の対等な構成員として、自らの意志によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ、共に責任を担うべき社会」です。すなわち、男女の人権が等しく尊重され、社会参加意欲にあふれた女性が自らの選択によって生き生きと活躍でき、男性も家庭や地域で人間らしい生き方を楽しめる、お互いが支え合い、利益も責任も分かち合える、いわば、女性と男性のイコール・パートナーシップで築き上げるバランスのとれた社会像です。
 本当に豊かな社会を実現するためには、育児や介護を家庭で女性だけが担い、もっぱら男性は外で働いて税金や年金などの国民負担を支える等の固定的役割分担にとらわれず、男女にかかわらず多様なライフスタイルを選択できる社会構造が不可欠です。しかし、我が国の現状を見ると、法律・制度上では男女平等が達成されつつあるものの、女性の政策・方針決定への参画、職場における能力発揮は十分ではないほか、女性の家事・育児・介護における負担が重く、また、伝統的に男性の家事や育児への参加が「男らしくない」とされる傾向が残っているなど、さまざまな面での男女共同参画が諸外国と比較しても不十分であり、「男性は仕事、女性は家庭と子育て」などの固定的な男女の役割分担意識は依然として根強く残っています。
 私たち一人一人が固定的な男女の役割分担意識を改め、男女が政治の場にも、職場にも、家庭でも共に参画し、生き生きとした充実した人生を送ることができる社会を実現しましょう。

 そして、内閣総理大臣から諮問を受けた男女共同参画審議会(97,6)は「男女共同参画社会」を形成するための基礎的な条件をもりこんだ「男女共同参画基本法」を答申(98,11)しました。この「男女共同参画基本法」は、99年の通常国会で提出されることになっています。
 1979年、国連総会で採択された「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約:通称、女子差別撤廃条約」を、85年に日本が批准(条約に対し国家としての最終的な確認をする)して以来、これで国際的にも国内的にもほぼ法的な整備がなされたことになり、私たちはこれらをよりどころにして、男女共同参画社会の実現に向けての歩みを進めることができます。
 さて、「私のめざしている社会とはどのようなものなのか」が、ご理解いただけたと思います。そして、その社会が国際的にも、国内的にも認知された社会であり、言い換えれば、私たちの共通の目標となるべき社会であり、そのためには、何よりも女性と男性との間に対等なパートナーシップが形成されること、ひとことで言えばが「エンパワーメント」が要求されているのです。

 「エンパワーメント」とは、第4回世界女性会議のキーワードであり、「女性が力(パワー)をつけること」をいう。自己決定能力といった個人的な力や、法的力、経済的力、政治的力など、ひとりが力をつけることが別の人の力になり、グループ全体の力を高めていくような能力のことである。
 

2.スポーツと「女性のエンパワーメント」

2−1.スポーツをジェンダーの視点で分析する
 本論の「スポーツと女性のエンパワーメント」にはいります。これは、「私の専門領域であるスポーツをとおして、エンパワーメントに貢献し、男女共同参画社会を形成したい」という意味を持っています。
 スポーツは、その成立の歴史から男性文化のシンボルとして発展してきました。現在でも、スポーツは「男らしさ」を発揮するのに最もふさわしい場面であるのはご存じのとおりです。では何故、スポーツと「男らしさ」を問題にしなければならないのでしょうか。それは、「男らしさ」や「女らしさ」に代表されるジェンダーが、性別役割分担を正当化する根拠として用いられ、ジェンダーは後天的なものであるにもかかわらず、スポーツは身体を利用したプレイであるために、あたかも生来的なものであるかのように思わせる役割を担っているからです。今ここに存在する身体は、自然なものではなく、深い歴史を負った産物なのです。

 ジェンダーとは、歴史的、社会的、文化的に形成された性のことであり、生物学的な性をさすセックスとは異なったものである。ジェンダーの視点をもつということは、社会や文化を変革することによって、それぞれの性にふさわしいとされている態度や行動、あるいは性による固定的なイメージや役割は変更することが可能であり、さらには学問や社会現象の男性中心主義を見抜くことを意味している。

 スポーツをとおしてのエンパワーメントには、深い考察が必要です。なすべきことは計り知れませんが、とにかく一歩ずつ歩みを進めねばなりません。現在は、ジェンダーまみれのスポーツ文化を暴いていくことを研究のテーマとして取り組んでいます。これについては、ぱすてる通信4号「ジェンダー探し」に書いた体力テストとジェンダーの関係、或いは「スポーツの社会学 8章スポーツとジェンダー」(杏林書院、1998)を参照してください。

2−2.スポーツ文化の価値を再考する
 スポーツが「男らしさ」の象徴であれば、スポーツに熱中すればするほど、スポーツの男性中心主義に追随するというジレンマをおこします。例えば、スポーツ種目の拡大は男性コーチと女子選手の関係を量産し、同じスポーツ種目であれば、女性は常に二流のプレイヤーに甘んじなければなりません。そして、女性が脚光を浴びる種目は、フィギュア・スケートや新体操などいわゆる「女らしさ」を強調する種目となってくるのです。
 しかし、女性がスポーツに果敢に取り組んできた歴史は、「女性解放」の歴史でもあったわけで、スポーツへの挑戦はこれからも益々盛んになるでしょう。私自身も、このスポーツが持つ自己矛盾について明確な解答を得ているわけではありませんが、まず考えられることは、スポーツの勝利至上主義に異議申し立てをすることでしょう。「より速く、より高く、より強く」は、あくまでも個人にとっての努力目標であり、世界最高を上位に置く価値観の転換が重要です。いうなれば、こういう「強者の思想」そのものが、近代を支配してきた男性文化といえるでしょう。そして、女性のスポーツがある程度男性と対等な地位を得るまでは、暫定的にアファーマティブ・アクション(積極的差別撤廃措置)やセパラティズム(分離主義)の導入も必要と考えています。

アファーマティブ・アクション(積極的差別撤廃措置)とは、あらゆる分野の雇用において、白人男性の独占をなくし、慣習的に差別されてきた女性や人種その他の人々を積極的、優先的に雇用するために打ち出された差別撤廃措置で、あらゆる施設、団体、企業などの方針に用いられる。
セパラティズム(分離主義)とは、男性から分離された女性だけの共同体をよしとする考えとその実践。

 ここまでくれば、「女性のエンパワーメント」、「男女共同参画社会」につながるスポーツのイメージが自ずから描き出されます。そうです。まさに、体操フェスティバルOSAKAに代表されるような「スポーツ・フォア・オール」的活動こそ、これからの社会に求められるスポーツ文化なのです。性別、年齢、障害、国籍、人種、宗教にかかわらず、あらゆる人が平等に参加し、喜びを共有できるスポーツ文化の育成が急務と考えています。それによって、勝利至上主義やコマーシャリズムに汚染されている今日の競技スポーツの未来も開けてくるのではないでしょうか。

3.おわりに

 マズローは、人間の欲求を低次から高次へ(1)生理的欲求(2)安全の欲求(3)所属と愛情の欲求(4)尊敬の欲求(5)自己実現の欲求と階層化しています。これらに対応するものとして、スポーツの欲求を(1)身体活動の欲求(2)健康維持の欲求(3)コミュニケーションの欲求(4)ファッションの欲求(5)自己開発の欲求(6)レジャーの欲求とする平川の試論がありますが、さらに高次に社会変革の欲求を掲げてみたいと思います。
 スポーツを専門領域とする者としては勿論のこと、フェミニストとしての私にとって研究と実践は不可欠であり、その線上にパステルや小組そして体操フェスティバルOSAKAの活動が営まれていることを明言したいと思います。
 現在、私が「スポーツと女性のエンパワーメント」に対して描いているあらすじを書いてみました。ぱすてる通信ということで、非常に気楽なレベルで書かせていただいたことを、ご了解ください。
                            1998年12月


   ぱすてる通信7号が皆さんのお手元に届く頃には、女性を取り巻く情勢に変化が見られるかもしれません。インターネットで総理府男女共同参画室HP、京都教育大学体育学科HP(京都スポーツと女性フォーラム)を開いてみてください。



呪文 パステル   荻野扶美子

私の9月10月は、忙しい。大好きな晴美台にいる時間が極端に少なくなる。 でも、ここ数年、パステルと唱えて乗り切ってきた。
飯田先生と、心優しきクラブメイトのおかげで。
沢山のハラハラ、ドキドキを振りまいたことだろう。
ごめんなさい。そして、ありがとう。
私の「年」に15〜18回のパステルは366回もの、コーヒーブレイクにあたる。どんなカチンコチンの状況の中でも、パステルと唱えるだけで未来への冒険者になれる気がする。命ある限り柔らかい心と身体で今を耕していく。知らない己を切り拓いていく。
また今日からよろしく。



私の故郷のお葬式   高橋公世

 先日、田舎の伯母が亡くなり帰省した。八十八で老衰という事もあって心はかなり冷静だった。
仕事を終えてその足で、紀勢本線の特急くろしおに飛び乗った。小柄で優しかった伯母の面影を夜景に重ね合わせながら、重い巡らせているうちにいつしかすっかり眠ってしまっていた。
3時間も眠っただろうか、まもなく終点新宮駅に着く。一両のローカル列車に乗り継いでさらに20分、やっと紀伊阿田和駅に着いた。無人駅の為運転手がホームに降りて車掌が職種換えする。もちろん降りる客は私一人、雨でも降ろうものなら傘までさしてくれる、温かな懐かしい光景だった。
翌日の午後、隣村の伯母宅に向かった。すでに家でのお経を終え、お寺までの行列の準備をしていた。子や孫、親族そして村人が手に手にお供え物を持っている。先頭には長い竹笹が掲げられており、穂先に紙細工の大きな龍が二匹泳いでいる。さらにその後ろの竹竿には、おひねりを沢山入れた竹かごがついている、まるで吹き流しのように、綺麗な竹細工のかごだ。赤い大きな蛇の目傘をさしかけられて、お坊さんが歩き出した。長い弔い人の列もみかん畑の間をぬってゆっくり動きだす。
「チン ドーン シャーン」もの悲しい鳴り物と太鼓の音が小高い丘に響き渡る。しばらく行くと、遠くに子供たちの姿が見える、誰ともなく手招きすると同時に、竹かごの竿を支えていた叔父さんが「トン・トン」と地面を突くと、かごの中のおひねりが零れ落ちて道にばらまかれた。それを子供たちが歓声を上げながら拾うのだ。4人、5人と子供たちの数が増えていく、学校帰りのランドセルを背負った子等が、いつの間にか行列に続いている。何度もなんどもトン・トンと地をついては、おひねりを振舞う。幼い頃私もこうして両手に一杯拾っては、行列に加わったのを思い出す。この風習は何の意味があるのか、お年寄りに聞いてもよくわからないという、ただ子供たちに賑やかに見送ってもらうことで、少なくともその場の空気が和むのは確かだ、昔からこの風習は全く変わらない。この日に戴いたお金は、縁起をかついで「その日の内に使え」と言われた子供たちにとっては最高の一日になるのだ。
いつの間にか口々に故人の思い出話をはじめる、長いお寺への道のりを温かな日差しを浴びながらゆっくり歩いていった。
境内に着くと中央に置かれた祭壇に位牌を奉り、その回りをお供えを持ったまま何度も何度も回るのだ。亡き伯母を偲びながらこうして延々と弔いが続いていく。
11月20日、甘酸っぱい蜜柑の香りと黒潮の波音を聞きながらこうして私は珍しいものでも見るかのようにこの静かな儀式を眺めていた。    合 掌




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