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情報組織化研究グループ月例研究会報告(2023.7)

「日本十進分類法標準化・激動の560日」

藤倉 恵一氏(文教大学越谷図書館)


日時:
2023年7月15日(土)14:30〜16:00
会場:
(Zoomミーティング)
発表者:
藤倉 恵一氏(文教大学越谷図書館)
テーマ:
日本十進分類法標準化・激動の560日
出席者:荒木のりこ(大阪大学附属図書館)、安藤友張(実践女子大学)、伊藤民雄(実践女子大学)、上村順一(琉球大学附属図書館)、大澤知世(北見市教育委員会 学校教育部 学校教育課)、川口祐子(株式会社マイトベーシックサービス図書館部)、工藤彩(久留米大学御井図書館)、久保誠(国際基督教大学図書館)、小林康隆、坂下直子(神戸女子大学)、柴田正美(三重大学名誉教授)、田窪直規(近畿大学)、竹村佐知子(滋賀県立総合保健専門学校)、徳原靖浩(東京大学附属図書館U-PARL)、中道弘和(堺市立図書館)、中山美由紀(立教大学)、野村知子(久留米大学)、橋崎俊(放送大学教養学部情報コース)、前川敦子(大阪大学附属図書館)、水谷長志(跡見学園女子大学)、光富健一(情報科学技術協会)、村上篤太郎(東京農業大学)、森原久美子(秀明大学図書館)、和中幹雄、他12名、藤倉<37名>

1. はじめに

 まず発表者の自己紹介と最近の研究の紹介があった。日本十進分類法(NDC)が「日本の標準分類法」としての道を歩むことになった2つの転機がNDC史において最大の分水嶺であり、NDC10版序説で簡潔な文でまとめられた背後に多くの検討と変転があったことが伝えられた。タイトルの「560日」とは、1948年9月の国立国会図書館でのNDC採用を勧告したダウンズ報告から逆算して、1947年3月の『学校図書館の手引』編集のはじまりからの一連の検討を指すものである。

2. 背景の解説

 まず、NDC標準化を主導した初代分類委員長・加藤宗厚(1895-1981)の生涯について説明があった。小学校教師をしていたが文部省図書館員教習所(のち図書館講習所)において井出董の講義を受け分類研究への関心を持ち、やがて帝国図書館で働き始めるようになる。1929年、井出の急逝により講習所の分類担当講師を任じられ、第1版が刊行されたばかりのNDCを教材に活用したことをはじめ、様々な場面でNDCを実用していく。特に戦中は富山県立図書館に転出し富山県内の公共図書館・学校図書館においてNDCへの分類変更を主導した。戦後は都立図書館を経て文部省の嘱託や日本図書館協会の理事として図書館行政に関与していたが、NDC標準化をはじめとした諸事業の中で初代分類委員長に就任し、やがて国立図書館長となった。続けて、戦前期NDCおよびそれに関する歴史の概要が説明された。1928年に森清(1906-1990)が原案となる「和洋圖書共用十進分類表案」を発表して翌年NDC第1版として刊行、1942年の第5版まで改訂が重ねられた。森は第2版刊行と前後して間宮商店を退職し、鳥取県、神戸市立、上海日本近代科学図書館などの実務を経て戦後帝国図書館の嘱託となったこと、その間の青年図書館員連盟の解散や間宮商店の炎上、日本図書館研究会の結成と戦後NDC復刻などが説明された。

3. 『学校図書館の手引』編纂

 1947年3月、教育基本法や学校教育法の公布・施行に合わせてGHQ/SCAPの民間情報教育局(CIE)と文部省は『学校図書館の手引』(以下「手引」)の編纂を企画した。この第2回会合から加藤宗厚が参加し、掲載する分類表の見本として学校現場側は教科目分類を、文部省学校局側はDDCを主張したが、加藤は一般読書も視野にいれてNDCを主張した。学校図書館コンサルタントとして「手引」の企画に関わっていた米国図書館協会のグラハム(Inez Mae Graham, 1904-1983)はNDCの説明を受け了承し、手引の編集が始まった。だが日本の図書館界に理解を示していたCIE図書館担当官キーニー(Philip Olin Keeney, 1891-1962)が解任され、同年10月に第2代担当官バーネット(Paul J. Burnette, 1908-?)が着任したことで最初の問題が発生した。10月下旬、バーネットは文部省側の担当である深川常喜(1911-1993)に対して、「手引」へのNDC採用を再検討するよう指示を出した。この背後には、NDCや支持者に批判的言動を繰り返していた毛利宮彦(1896-1956)の介入が疑われる。毛利自身を含めて確証となる記述は発見されていないが、加藤および深川の回想を考察することでバーネットに直接進言していたことが推測できる。1947年12月、NDCに代わる日本の新しい標準分類表案を作成する制定委員会が組織された。加藤や森もこれに加わって、翌年1月にかけてNDCとは異なる新たな十進分類表案を策定した。この分類表案は1000区分まで作成されていたが、雑誌論文等で公刊された加藤や森の記録では10区分のみが伝わっており、ほぼ灰色文献に近い謄写版の日本図書館研究会の会報において、100区分までは確認することができる。この案の有用性について1948年1月から2月にかけて審議されたが、NDCほどの利点が考えられず、また検討会議において国際的共通性の観点からDDCを主張する意見もあって、結局この分類表案は廃案となった。「手引」刊行を急ぎたい文部省は3月、NDCとDDCの両方を掲載する案をバーネットに提出したが、バーネットは4月、NDCを却下する指示を下した。これにより再びNDCが決定的に否決された。だが加藤がバーネットを説得する文書を提出する一方、バーネットの全国巡視時の意見聴取でDDCへの反対が多く、バーネットは自身の指示を撤回し、5月18日、NDC採用の決定を下した。こうして『学校図書館の手引』は1948年12月に刊行され、日本の学校図書館の標準としてNDCが使われるようになった。

4. 分類委員会の誕生と国立国会図書館開館

 1948年4月、日本図書館協会役員会において協会に部会・委員会の設置が協議され、分類委員会および目録委員会の設置案が決定した。これは6月14日の定期総会で承認され、委員会設置が決定する。また6月、国立国会図書館(NDL)が開館し、24日には館長・関連局長および有識者による「国立国会図書館分類表に関する懇談会」が開催された。ここではNDCについては話題にならず、出席した森も、和書については新たな分類案の作成を提言している(漢籍は四部分類、洋書はDDC)。7月24日、上野の国立図書館で第1回分類委員会が開催される。この時、NDLの技術顧問として来日したイリノイ大学のダウンズ(Robert Bingham Downs, 1903-1991)の意向として、分類委員会にNDLでの分類についての検討が依頼された。分類委員会はここから8月末までの短い期間に、7回の会議を設けて審議を重ねることになった。

5. 分類委員会での議論とNDLの分類

 懇談会の時点ではNDCの使用は俎上に載っていなかったが、まず和漢書と洋書で分類を分けること、洋書の分類はDDCを使用することについては委員会で合意した。そして和漢書の分類は、NDC5版を選択肢の1つとして検討が始まる。一方では廃案となった新分類表案をもとに都立図書館と国立図書館の間で検討された分類案も検討されたが、8月3日の第3回分類委員会において、森はNDCに対する大規模な改訂を提案した。これに対し委員会は「森の大規模改訂案を受け入れるよりも新しい分類を作成したほうがよい」という主張と、「なるべく改訂を抑えてNDCを使用したい」という主張が対立することとなった。議論は「NDCを使用する」という基本方針に落ち着いたが、この改訂規模をめぐる意見の対立はNDCの根幹に関わるものとなった。森の主張は原編者によるものであったが、NDCの採用館が既に国内に多かったことから大規模改訂に否定的意見が多く、8月21日の第4回から30日の第5回の委員会にわたって、案の決定を、NDCに保守的な委員長(加藤)に委ねるか、大規模改訂を主張する編者(森)に委ねるかという議論に移り、最終的には委員長である加藤の決断で、NDC5版の第3次区分までは保持する改訂方針で決定した。この、森vs加藤という意見の衝突は、NDCにとってもう一つの危機的局面となった可能性もある。編者の意向を離れたNDC改訂の始まりでもあった。9月11日、ダウンズはGHQ/SCAPに『国立国会図書館に於ける図書整理:文献参考サーヴィス並びに全般的組織に関する報告(Report on Technical Processes, Bibliographical Services and General Organization)』を提出し、その中で和漢書に対してはNDCの使用が勧告された。こうして、1963年「国立国会図書館分類表(NDLC)」ができるまでNDCは国立国会図書館の分類として使用され、現在もNDLで全国書誌の分類として付与され続けている。

6. その後のNDCとまとめ

 1947年6月17日、日本図書館協会の常務理事会においてNDCの改訂に関する覚書が作成され、(1)原編者として森の名を標題紙および奥付に残す (2)今後の改訂について森を参加させる ということが決定した。1950年には新訂6版(2分冊)が刊行され、分類委員会が改訂を継承し現在に至っている。

 この560日間の検討において、『手引』への掲載がなければNDCの決定的普及はなかったかもしれない。特にバーネットの指示がそのまま日本に受け入れられていたとすれば、DDCか、日本独自の新分類を使用した可能性がある。そうなっていたならば、森は、NDCを自分の意志で自由に改訂できたかもしれない。戦後から現在に至る日本の図書館では統一的な分類表は存在せず、NDCを含む2〜3の有力な分類法が存在し、NDCは「分類法の選択肢の1つ」となっていたことが考えられる。

なお、今回の月例研究会については、Zoomの映像を録画し、開催後一週間に限り、出席を申し込んだものの欠席された方にも、映像を配信した。

(記録文責:藤倉恵一)